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いっそもう帰れなくてもいいぐらいの気持ちで飛び出したセリノスに思いがけない形で帰ってきたが、さて。
まさかこんな形で厄介事の一つが片付くとはね。
いや、報告を受けた中で一番面倒だと思っていた首謀者を捕まえることができたってだけの話で、本質的なことはまだ解決したわけじゃないんだが。
なにがって、ティバーンの治世をひっくり返そうっていう謀反の話だ。
もちろん、ティバーンがラグズ全てを裏切った俺たち鴉を赦したからと考えている者が悪いわけではない。それはティバーンに王の地位は相応しくないと主張するに足る当然の理由だ。
だが、昨日首謀者の一人であるリゾーが捕まり、それで慎重になったのか、臆病風にでも吹かれたのか。急に黙り込んで姿を見せなくなった他の鷹の連中は違う。
単に、自分が王になりたいからだ。
王ってのは威張って崇められるだけの地位じゃないし、特にこれからの王位に求められるのは強さだけじゃない。
そりゃ、その種族の中で自分が一番強い証ってのももちろんあったが、それもこれからは変わる。
強いだけじゃ王は務まらない。
たとえば、キルヴァスでは飛べなくなった鴉は救いたくても自ら命を絶つ者が多かった。本当だったらニアルチの友人だってもっと残ってただろう。
でも、飛べなくなったから、戦えなくなったから、余計な食い扶持がかかるからと……俺の代になって、特に強く何度も禁止してもその風習は変わらなかった。
これからは違う。歳を重ねて飛べなくなった者も安らかな時間を過せるように。
戦ったり、狩りをするだけが生活じゃないんだ。
特に年寄りには今まで培ってきた経験や知恵を借りたりすることが増えるだろう。
子どもたちには勉強させなくちゃならない。もちろん、大人もだ。
ベオクという種族だけじゃなくてあらゆる価値観を隔てた連中と対等な話し合いができなきゃならないし、これまでは大して重要視されなかった金のこともある。
特にラグズは自給自足が基本だったからな。金には基本こだわらないんだ。
だが、このままじゃベオクにまた半獣呼ばわりさせる理由を与えちまう。
外貨稼ぎの重要性も知る必要があるし、セリノスだけじゃない。ガリアやゴルドアをはじめとして、俺たちラグズの住む土地にはベオクの連中が喉から手が出るほど欲しいスパイスや鉱物があるんだから、それを守ったり適切な価格で取引できるようにならなきゃいけない。でなきゃベオクの商人どもに甘い顔で寄ってこられて、いいように土地を荒らされるのがオチだからな。隙を見せた方の負けだ。
民に学ばせるんだから、一番詳しくなくちゃならないのはもちろん王だ。
時代が大きく変わる転換期だってのに、その王があんな脳まで筋肉でできた奴だったら恐ろしすぎる。ガリアの赤獅子、スクリミルもかなりのものだったが、あっちにはベオクの文化に精通したライもいるし、なにより先代の王があのカイネギス殿だからな。諌められる相手がいる分、何倍もましだ。
「ネサラ様、大丈夫ですか?」
「ん?」
あれこれ考えることが多すぎて結局なにも書いていない羊皮紙を眺めていると、遠慮がちな声がかけられた。怪我をしたニアルチの代わりにお茶係を申し出たシーカーだ。
個人的にはお茶なんかよりタコ部屋に行って書類作成の指導に当たって欲しいんだが、ニアルチとシーカーはどっちかが俺の茶を淹れなくちゃ気がすまないと折れないんだから仕方がない。
「なんだかお疲れのご様子でしたので。やっぱりお茶菓子もご用意いたしましょうか? 少し甘いものを召し上がるとご気分が変わって良いかも知れませんし」
「必要ない」
「ですが……」
「いつものお茶に少し砂糖を入れてくれ。それから俺がいない間にセリノスに届いた書簡の一覧をもう一度見たい」
「はい」
本当は甘いお茶は余り好きじゃないが、確かにちょっと疲れてるような気はする。そんな時は砂糖の入ったものを摂ると不思議とすっきりするからな。
キルヴァスから持ってきた数少ないもののうちの一つ、銀の文鎮をぼんやり眺めて指示すると、シーカーはほっとしたように頷いていそいそと仕事に取り掛かった。
この文鎮は母が使っていたものだ。母は身体が弱かったが、本を読んだり詩を書いたりするのが好きだったらしい。そんな母に、父が贈ったのがこの文鎮だと聞いたことがある。
蔓薔薇が絡むような形でデザインされたこの文鎮は銀製だし、高価だったんだろうが、それなら宝石の一つでも贈れば良さそうなものなのに。でも、母は宝石よりもこんなものを喜ぶような女性(ひと)だったんだろう。
とても大事にしていたとニアルチに聞いた。
この文鎮とペン先が銀製のペン、模様を彫り込んだ硝子のインク瓶が入っている艶のある貝殻細工の小箱の全てが父からの贈り物だったそうだ。
俺は最初からこんな形でセットになったものを父が選んで贈ったのだと思っていたが、実際には一つ一つ、わざわざ選んだり作らせたりしたらしい。
ずいぶん面倒なことをしたものだと思ったら、なんと一つ贈るごとに母に求婚していたのだと聞いてなぜか俺が恥ずかしかった。
良く言えば慎重、悪く言えば臆病な鴉の中では俺の父は型破りで奔放な人だったから、身体が弱くておとなしかった母はずいぶん困ったそうだ。
それでも、求婚を繰り返され、懇願されて、やっと受け入れる気になったんだな。
俺には母の思い出はまったくないが、物心ついたころに機嫌の良い時は謡うような口調で「おまえの母は良い女だった。最高の女だったんだぜ」と、父が語ったのをよく聞かされたものだ。
美人だったのかと思ったら、造作だけで言うなら顔は父の方が遥かに整っていたらしい。それなら、きっとまとう空気がとても心地良い女性だったんだろう。
……母上に会いたいと思ったのももうずいぶん昔の話だ。
こんなことまで思い出すなんて、やっぱりちょっと疲れたんだな。
なにも言わずに出された甘いお茶を一口飲んで、俺は使い慣れた文具箱の蓋を閉じた。
「なんだ、カップを変えたのか?」
「あ、はい。そちらはクリミアのフェール伯からの贈り物でございます」
「俺に? ティバーン…鳥翼王にではなくか? そもそもなんでフェール伯がこんなものを贈ってくるんだ?」
「はい。ええと、鳥翼王宛にカードが入っていたそうです。理由までは私にはわかりかねます。そのカップだけではなくてですね、香油と、象牙の扇など、いろいろ入っていたのですが、そのカップは特に薄くて華奢な作りですから、王に持たせると絶対にその場で割るからとおっしゃってヤナフ殿がネサラ様に使って欲しいと」
なんだ、それは。
いつもと違うカップを出されたから訊いたんだが、出てきた話に俺は頭が痛くなりそうになった。
ティバーンに持たせるとその場で割るだと?
…………割るかもな。
さすがはクリミアの品だ。見事に真っ白く薄いカップの縁取りは繊細に仕上げた金で、大輪の薔薇が一輪カップの外側に、内側にははらりと落ちる花びらが二片描かれている。カップ全体がふっくらと開いた花のような形で足がやや高く細いが、安定感は良い。
取っ手も華奢な作りだが、俺の指でちょうど納まるぐらいか。ソーサーの方も同じく真っ白で、まるで編んだレースのような縁が見事だ。裏側は一面金貼り。中央に小さく入っている名は、職人のものだな。この名は確かクリミア王家お抱えの者のはずだ。
「いかがですか? 美しいでしょう?」
「リアーネは……割りそうだな。ラフィエルにでもやればいいんじゃないのか? もう王じゃあるまいし、俺が使うには高価過ぎるぞ」
「そんなことはありません! これはネサラ様にこそ相応しいお品ですよ! それに、ラフィエル王子に使っていただこうとしても、きっと珍しがったリアーネ様とリュシオン様が触られて割ってしまいます」
確かに。こいつもあいつらの性格を良く理解したもんだ。
ベオクなら棚に飾るところだろうが、どんなに綺麗だろうと食器は食器。この優美な姿を愛でながら、せいぜい大事に使わせてもらうとするか。
「わかった。それならシーカー、このカップの手入れはおまえがやれ。手入れの仕方はニアルチに聞けば良い。くれぐれも金の剥げた飲み口のものを俺に出すなよ。それだけで休憩が台無しになる」
「は、はい! 喜んで!!」
日ごろから俺がティバーンに傅くのを悲しそうに見ていたシーカーだ。久しぶりにキルヴァス王時代のように尊大な態度で言ってやると、シーカーが輝かんばかりの笑顔になった。
やれやれ、こいつにも困ったものだ。
だがまあ、こんなことで喜ぶなら悪いことでもないかもな。
そう思いながら赤いお茶を飲み干してカップをシーカーに渡すと、俺は几帳面な字で書かれた書簡の報告書に目を走らせた。
返信が必要なものを探すために見たから印のないものは流し見だったんだが、中に気になる名前があったんでな。
「……妙だな」
「どうかなさいましたか?」
これは国内外を問わずこのセリノス王宮に届いた書簡の宛先と差出人が書かれたものだ。鷹の連中に任せておくと心配でな。
鴉の文官も管理に携わらせている。これもその鴉の文官が全てチェックして書いたものだ。
王宮宛に届くのだから、それなりの肩書きの相手が多い。ベグニオンの皇帝であるサナキや、クリミア女王、グレイル傭兵団のアイクの名もある。もっとも、アイクのは名前だけで中身は軍師であるセネリオが書いたものばかりだが。
この中に、レニング卿からラフィエルに宛てた書簡があったのが気になったんだ。
「この人物からのものだが、手紙だったか?」
「はい、……ラフィエル王子宛のものですね。はい、お手紙でした。他の荷物などはございません。確かその方はクリミアの女王陛下の叔父君ですよね?」
「そうだ。確かに面識はあるが、あの二人がそれほど親しくしていたとは思えない」
「そうなのですか? ですが、レニング卿はセリノスに来られたこともありますし、王子とお会いになる機会もあったかも知れませんよ」
「そうなのか?」
「はい、その……。ネサラ様の処遇がまだ決まっていないころ、クリミア女王からの書状を直接持ってきてくださった時に、鷺のご兄弟もお会いになられてますから」
シーカーから言い辛そうに説明されて、俺はようやく思い出した。
そう言えば、俺が軟禁されてたころにあちこちから来客があったらしいな。中には俺の助命嘆願でわざわざ来た連中もいたはずだ。
参ったな。情けないが、あのころのことはあまりはっきり覚えていない。
女神と戦って、いよいよ償えると思ってちょっと気が抜けてた部分があるからな。もちろん、鴉の民の身の振り方をどうにか決めてからってのがあったから、それで頭がいっぱいだったってのもある。
いつ寝て起きたかもわからない。ただカーテンも閉めてランプを一つつけたまま、誰かに言われるまで座って床か、壁を見ていた。
窓を開けるなとは言われなかったが、外にニアルチやシーカーの気配を感じていたから、開けたくなかったってのもあった。
確かにそのころ親交を持ったなら、それほど不自然な話じゃないな……。とりあえず、あとで一度ラフィエルに確認してみるか。
「とりあえず今俺が書き起こす書類は以上だな?」
「はい。急を要するものはそれだけです。あとは日数的に余裕がありますし、ネサラ様のご用が終わるまで私がある程度のところまでは起こしておきますので」
「わかった。任せる」
「はい!」
簡潔に命じると、シーカーはいっそうにこにこと鼻歌でも歌いそうな調子でティーセットの乗ったワゴンを押し、昔と同じように一礼して執務室を出て行った。
やれやれ、いつまでも頑固なことだ。あいつも数の少ない蒼鴉だからな。そろそろ身を固めてはどうかとあちこちから言われてるらしいが、あの分ではいつになるやら。
……まあ、外交顧問つきの従者なんだから、それなりに安定した生活は保障されてる気がするんだが、どうなんだろうな?
まあいい。これで執務室でやる用事は終わった。
座り心地の良い椅子から立ち上がりながら肩を鳴らすと、俺はまだ果たしていないもう一つの用を思い出して窓を開けた。
例の娘のことだ。昨日はなんだかんだとやることが増えて行けなかったからな。
「おや、お出かけかい? 鴉王」
「………誰だ?」
あまり行儀の良いことじゃないが、ここはセリノスだ。テラスから直接飛ぼうとしたところで、初めて見る鷹の女がちょうど降りてきた。
見目の印象より甘い声をした女は鷹らしく長身で、戦士なんだな。鍛えた体つきをしていて、良く陽に灼けていた。ゆるく広がる長い髪の色も明るい。目鼻立ちはけっこう整っていて美人だと言ってもいいが、少し厚い唇が人によっては惜しいと言うかも知れない。でもこういうところが逆に色っぽいと言われるのは俺も知ってる。
「あたしはスウ。鷹の戦士さ。いきなり押しかけちまってすまないね」
「いや。なにか俺に用があるのか?」
「あんたを殺しに来たって言ったら、どうする?」
「……証拠は残すな。あんたが裁かれたら後ろの子が可哀想だ」
冗談じゃなさそうな表情で中に入ってきた女に答えると、スウと名乗った女の榛色の目がきょとんと丸くなった。
それから後ろを見て、こっそり自分をつけてきていた雛の少年を見て笑い出した。とても今言ったことを実行しようとは思えない、明るい声で。
「もう、参ったね。こらぁ、ついてきちゃ駄目って言っただろ!?」
「でも、かあちゃん……鴉王はおっかないっておじさんたちが……」
「どこがおっかないもんか! ほら、ごらん。王よりずっと優しそうだろ!?」
「…………」
「だから、あっちへお行き! 大事な話があるんだからね!」
やっぱり、この女戦士の子だったか。
俺の許しなくぐいと肩を掴んで心配そうに様子を伺う坊主の方に俺を向けると、坊主は渋々と頷いてようやく離れた。
振り返り振り返り、怒った表情で自分を見送る母親に未練を見せながら。
母親、か……。俺にとっては、亡くなった母の代わりにお乳をくれたセリノス王妃、リリアーナさまのような存在だから、それから比較するとずいぶんかけ離れているが……それでもなんとなくな。
スウという女から伝わってくる母親特有の空気に共通点を見出して、俺は怒る気になれなかった。
「ところで、俺を殺すならできればもう少し待ってくれないか? 鳥翼王に任せるにはいささか心許ない書類があるんだ。もちろんそんなに時間は取らせない。ただその草案だけ書かせてくれたら後はなんとかできる範囲になると思うから」
確か今日からウルキはセリノスの外に出ているはずだ。だから機会があるとすれば今日しかない。
とりあえず生きて償う気にはなったんだが、希望者がいたんじゃ仕方がないんだろう。
そう思ってもう一度文具箱を取り出してさっさと草案をまとめようとしたところで、後ろで優しいため息が聞こえた。
「もう、本当に諦めがいいんだねえ、あんたは。死ぬかも知れないって時は、足掻くもんだよ」
「足掻きたくても足掻けずに逝った連中が先に待ってるんでね。生きてる連中だけじゃない。先に逝っちまった連中にも復讐の機会があってもいいと思うんだが」
「そんなの、あんたが死んじまってからで充分さ! ああもちろん、寿命でね?」
「…………」
一体なにを言いに来たんだ、この女は? 意味がわからなくて首をかしげて振り返ると、いかにも意志の強そうな榛色の大きな目がやわらかく俺に向けられた。
「あたしはそんなことをしに来たんじゃないよ。もちろん、あんたが見苦しく命乞いをするようならこの手で始末をつけるつもりだったけどさ」
「した方が良かったみたいだな」
「心にもないことを! ……謝りたくてね」
「謝る? なにをだ?」
俺とほとんど身長の変わらない女に訊くと、女…スウだったな。スウは一つ息を吸ってその場に片膝をついた。
驚いたとも。誇り高い鷹の戦士が鴉に、まして裏切り者の俺に膝をつくなんてあっちゃならないことだからな。
「あんたの同胞…そして今はあたしたち鷹の同胞でもある鴉の娘を、あんな目に遭わせちまった。よりにもよって鷹の戦士がだ。同じ戦士としてこれほど恥ずかしいことはない。あたしだけじゃないよ。心ある鷹の戦士は皆、心からそれをあんたに詫びたいんだ。本当に申し訳ない」
「よせ。立ってくれ。俺はもうキルヴァス王じゃない」
「でも、鴉の王だ」
スウの言葉の重みが、今さらのように肩に乗る。
「王はまだ犯人についてなにも言ってはいない。だが、裁かれて然るべきだ。あたしたちはあんたの裁きであの鷹が死ぬなら、それは当然だと思ってる。確かにあんたたちの裏切りでフェニキスは焼けた。死人も、怪我人も出た。でもそれと今回の話は同じにしちゃいけないんだよ」
立ち上がらせようと膝をつきかけた俺を手で制すと、スウは厳しい表情で顔を上げ、戸惑う俺に言った。
「あんたは、王だ。民が遠慮して言えない時こそ、あんたが矢面に立たなくちゃならない。そんな王を罵る輩は所詮その程度のことしかわからない連中さ。そうだろ?」
軋轢が生まれることだけを気にしていたら、いつまでも種族の融合はできない。スウはそのことを言ってるんだ。
それはわかる。もちろん同感だ。
だが、時期がまだ早すぎる。
何も言わずに黙っていると、スウはまるで試すように俺を下から見つめて、俺は射るような視線をまともに受け止めたまま、ゆっくりと誇り高い女戦士に視線を合わせた。
火花が散った気がする。
だが、言葉にしない俺の言葉の意味を汲んだんだろう。ゆっくりと強張っていたスウの肩から力が抜けて、俺は一言だけ答えた。
「鷹の戦士たちの誠意は受け取った。これが慰めになるかどうかはわからないが、娘にも伝えよう」
「……ご厚恩、感謝する」
そこでようやく立ち上がったスウにちょっと笑って、俺は昨日知った話について訊いてみた。
あのリゾーという男がどうやら卑劣な嘘を吹き込んで加害者の鷹の戦士をそそのかしたらしいことをだ。
「その話のことはあたしもちょっと聞いた。ここまで詳しい内容じゃないけどね。全部が嘘ってわけじゃないさ」
「そうなのか?」
「ああ。あの時、あたしもフェニキスの守りに残っていたからね」
あの惨状の生き証人の一人か…!
驚いて厳しい表情になったスウを見返すと、スウは深い息をついてぐい、と豊かな胸を覆った胸当てを外した。
大きく突き出した迫力のある乳房が片方露になったが、俺が驚いた理由は親しくもない女性の裸の胸を見てしまったからではなくて、そこに斜めに走った白い傷跡だ。
致命傷になりかねない位置と深さだった。
「この通り、死に掛けてね。あの男に伝えた時は全てを話せたわけじゃなかったんだ。でも、死んだ鷹の娘と、娘の兄だった幼い戦士の名誉のためにも言っておく。娘はニンゲ…ベオクに乱暴なんかされちゃいないよ。されそうになったのは事実だ。それを止めようとして怪我をしていた幼い鷹の戦士が死んだ。ベオクの隊長がそれを見て激怒してね。鷹の娘を守るために同胞を斬り殺してくれたんだ。そして心から詫びてくれた。礼を言うような場面じゃなかったけどね。無益な殺生をするなと本気で言って回っていたさ。もちろん、全員が全員じゃない。そりゃあ反吐が出そうな『ニンゲン』だっていたけど、少なくともあの隊長は喜んでこの任務を果たすつもりじゃないことだけはわかったよ」
「だが、それなら娘はどうして……?」
犯人の男の妹は、首の骨を折って死んだと聞いた。
理由がわからなくて訊くと、スウは自分が痛かったように顔を歪めて俯き、搾り出すようにして話してくれた。
「はっきりしたことは言えないが…あの日は、風が強かった。あたしも怪我人を守ろうとして戦っていてね。娘に、逃げろと言った。娘は半泣きで嫌がったけど、正直、もう守ってやれる自信がなかったんだ。だから、皆が避難してる小島へ行かせた方がいいと思ってね……。翼も折れていたんだけど、あの折れ方からすると強風に煽られたんだと思う。鷹の翼は強いものだけど、あの娘はまだ雛ぐらいだったし、飛ぶのも余り得意じゃなかったんだと思う。落ちた場所が悪かったんだろうね。見つかったのは岩場だ。それで首を折ったんだと思うよ」
「…………」
「もっとも、だからってこの話で誰かが救われることはないけどね」
フェニキスが襲撃さえされなければ、誰も死ななかった。
わかっていた答えが胸に迫る。
謝って済む話じゃないし、謝る資格も俺にはない。
ただ、苦い。
「二度と……」
思うよりも早く俺の口から言葉が転がり出て、顔を上げた女よりも俺は自分に驚いて慌てて口を押さえた。
「なんだい?」
なにを言うつもりだったんだ? 俺は……。
優しいぐらいの声で問いかけられて慌てて首を横に振ると、俺は光沢のある絹の絨毯の模様に視線を落とし、唇を噛み締めた。
だが、スウはそれを許さなかった。
「こら、男だろ! 一度言いかけたことは最後までお言い!」
人を王として扱っていながら、なんて物言いだ。
でも、文句はなかった。
ちょっと作ったような厳しい声に顔を上げて、俺はさっき零れかけた言葉の続きを言ったんだ。
「もう二度と、そんな思いをする者を出さない」
「あんたと、王の力で?」
「俺のできることは知れてる」
だが今度は、鳥翼の仲間になにかあれば、誰よりも俺自身が戦う。
………戦いたい。
それが俺の本音だった。
みっともないな。王としての言葉でもなんでもない。
こんなの、子どもの戯言みたいだ。
それでもスウはちょっと笑って、それから俺の背中を叩いて言ったんだ。
「戦士の目だね。なら、大丈夫さ」
「なにが大丈夫なのかわからんが、あんたの息子がまたうろついてるぞ」
「なんだって?」
恐らくティバーンより上かも知れないが、それでも俺の母親というには若すぎるのに、まるで母親に叱られた子どものような気分でいたら、窓の外からちらちらとこちらを伺う鷹の坊主と目が合った。
スウが振り返った瞬間逃げた速度はなかなかのものだ。将来いい戦士になるんじゃないか?
「まったくもう! 気が優しいって言やあ聞こえは良いけど、しょうのない子だねえ」
「そう言うな。母親の身を案じたんだろう。良い子じゃないか」
「そうかい? まあ、そうかも知れないけど……やれやれ。翼が緑だし期待したけど、どうやら王の種じゃなさそうだね。ふふ、まあ種が誰だってあたしの子には違いないから、構わないんだけどね!」
「え?」
「じゃあね、鴉王。鷹に頼みたいことで、もし王に言い辛いことがあったら、あたしにお言いよ。できることはきっとするから。それと、王の発情期がそろそろだ。不味いと思ったら近づくんじゃないよ。あの時の王は激しいからね。あんたはまだ相手しない方がいい」
でなきゃ、壊れちまうよ。
飛び立つ前に朗らかな笑顔を向けられて、俺はなにも言い返せなかった。
ティバーンと俺がそんな仲じゃないことはたぶんもう知ってるとは思うが、まるで当たり前のように言われたからだ。
それに……。
「ティバーンの子……?」
テラスに出てぼんやり見上げた空に、睦まじい母子がいる。
勇ましい女戦士の母親の腕に抱かれてうれしそうに羽ばたく子どもの翼は、確かに緑がかっていた。
顔が似ていたかどうかまでははっきりしないが、あの緑はティバーンと同じような色だ。
………そうか。そうだな。
ティバーンの歳だったら、子どもがいたって不思議じゃないし、むしろ当然だ。結婚して家庭を持たないのはいい加減な気がするが、鷹は猫と似ていて、あまりそんなことにこだわらない。
ベオクじゃあるまいし、王の子だから王子だとか、そんなものもないし、必要ない。
自分でもどうしてこんなに驚いたかわからないが、改めて一瞬沸き起こった妙な感情を打ち消すと、俺は軽く頭を振ってテラスから羽ばたいた。
「よう、鴉王!」
「昨日は見事だったぜ! 一度あんたも訓練場に出て来いよ!」
鴉の娘のもとに行くつもりだったんだ。
でもその途中で何人かの鷹の男に見つかって親しげに声をかけられた。たった一日でこの変わりようだから本当に驚かされる。
俺に向けられる苦々しい視線が全てなくなったわけではないが、俺本人でさえ「おまえたち、気が変わるのが早すぎるぞ」と言いたくもなるな。
もちろん、言わないがね。
なによりうれしそうにそんな様子を見上げる鴉の民の顔を見たらな。
俺にできることは声をかけてくる連中にそつなく応えるだけだ。
「ん?」
そして深いセリノスの森の外れまで飛んで、鴉の寡婦たちの住む小さな家が見えた時だった。
女たちが何人か外に出て騒いでるらしい。……なんだ? なにかあったのか?
本来は王である俺でも寡婦の家に入ることは許されないことだ。だから一瞬、俺を見つけて騒いでるのかと思ったら、違うようだな。
「どうした?」
「ネサラ様…!」
ここの古株である老鴉のゲルダが、目の前に降りた俺を見て慌てて平伏する。他の女たちも皆それに習うのを見て、俺は身振りで「良いから立て」と伝えた。
「騒いでいたようだな。なにがあった?」
「そ、それが……」
女たちが顔を見合わせて口ごもる。ゲルダも同じか。
これでは埒が開かない。
俺は視線と声を少し厳しくしてもう一度命じた。
「言え。なにがあったんだ?」
ようやく気持ちが定まったんだろう。
ゲルダが曲がった背中を伸ばし、俺を見上げて口を開いた。
「実は、ティゼが…ここで養生しておりました娘が、いなくなりました」
「ティゼ? まさか……例の娘か?」
「は、はい」
ゲルダが頷くと、他の女たちがいっせいに涙ぐんで顔を覆う。
いなくなった? だったら、泣いてる場合じゃないだろう!
「いつまでいた?」
「朝食の時はおりました。少しゆっくり眠りたいと言うものですから目を離してしまって、さっきお昼を持って行ったら姿がなくて……」
「わかった。俺が探す。おまえたちはここにいろ。騒ぎが大きくなったらいけない」
「ネサラ様…!」
「傷もまだ癒えてないんだろう? だったら、手当ての用意をしておいてやれ。娘は俺が連れ戻す」
それ以上の命令は必要ない。女たちの返事を待たずに簡素な家の前から羽ばたくと、俺は手のひらを湿らせる嫌な汗を感じながら飛んだ。
探すといっても、俺には心当たりはない。
まさか……。
嫌な想像が頭を過ぎって慌てて首を振る。
落ち着け。俺が慌ててどうする? そんなことになったら大変だからこそ、落ち着いて探さなきゃならないだろ。
「くそ、ヤナフに頼むか…!?」
勝手な話だが、こんな時にウルキがいてくれればと思っちまった。
ティバーンの腰巾着の二人を疎ましく思う反面、こんな時は正直、羨ましいね。
……あいつらはいいヤツだからな。本心から疎ましかったことは実は一度もないんだが。
ただ、そばに来られるといつ誓約のことがバレるんじゃないかとひやひやさせられただけで。
「あー、ネサラー!」
だが今はまだ人目につく真昼だ。とりあえず表情を作っておかなきゃならない。無意識に印のあった手首を押さえてセリノスの森全体の地図を思い描いていたところで、下から聞きなれた柔らかな声で呼ばれた。
「リアーネ……」
「おさんぽ? わたしもいっしょ、だめ?」
ふわりと、薄くて白い翼が動いて華奢な身体が浮く。
今は駄目だ。心を閉ざしながら相手をする余裕がない。
だから断ろうとしたんだが、春の若葉色をしたリアーネの目が丸くなり、引き離されまいとぱたぱたと忙しなく飛んで来られた。
「ネサラ、困ってる?」
参ったな。また力が強くなったらしい。
「わたし、ネサラの力…なります!」
「リアーネ、そんなこと気にしなくていい」
ぽん、と華奢なわりには柔らかそうに膨らんだ胸を叩いて言われたが、俺の方はそれどころじゃない。
第一、こんなことリアーネに頼めるはずがないだろ。
「ネサラが困る、いや。だから、ね?」
「リアーネ……」
「おしえて? わたし、だいじょうぶよ」
なにが大丈夫なんだかわからない。
本当にわからなかったんだが、するりと俺の腕に手を掛けて笑ったリアーネのまっすぐな目にこれ以上断る口実が見つからなくて、俺は正直に言った。
「おまえに、辛いものを見せたくない」
「それはネサラの? ……ネサラが、さがすひと……?」
「両方だ」
リアーネの若葉色の目に金色の燐光が見える。必死で俺の心を読むためだ。
鷺の力は、時に鷺自身を殺すことがある。
人の記憶や心ってのは生々しいものだからな。記憶や感情を読むと、同じだけの喜びや痛みも受けることになると聞いている。
抑えてるつもりだが、今の俺の感情だってリアーネにとって痛くないはずがない。
それでも小さな息を一つついただけで「ん!」と強く頷くと、リアーネは俺の腕の中に自分で入り込んで金色の燐光をまとった白い指先である方向を指した。
「ネサラ、向こう」
「いるのか!?」
「いたいこころ…かなしいこころ…こわいって」
どこか夢を見ているような表情でそこまで言うと、リアーネは潤みそうな大きな目を俺に向けて古代語で続けた。
『早く行ってあげて。大丈夫。そのひとは死んじゃったりしないけど、でも死んじゃいたいぐらい、心細いの。こんなに苦しいなんて、きっとネサラが探してるひとだと思うから』
「そうか。わかった。向こうだな」
『ダメよ。わたしもいっしょに行く! わたし、うたってあげたいの。だから連れて行ってね』
まったく、兄妹揃って押しが強いな。
きゅっと巻きついてきた細い腕を振りほどく時間も惜しいし、なにより無理にそんなことをして怪我でもさせたらいけない。
そう思って俺はリアーネを片腕に抱えたまま、教えられた方向に飛んだ。時々冷やかされたりもするが、そんなものは今は無視だ。
「ネサラ、ここ!」
「なんだ? 酒蔵か?」
ここはセリノスの北側にある小さな岩場だ。洞窟になってるところがあって、その中が涼しくて湿気もあるから、酒の貯蔵庫にしようと決めたところだった。
鴉の娘がこんなところになんの用だ?
「中だな」
ここには見張りもいない。のん兵衛の鷹が盗むことを心配していたが、規律はちゃんと守るのがわかったから置かなかったんだ。
ベオクと違って基本的にラグズは泥棒したりはしないからな。もちろん戦士の巡回はあるが、それだけで充分だと思っていた。
なるべく音を立てないように中に入ると、ついてきたリアーネがくいと俺の腕を引く。奥じゃないのか?
暗闇は苦手だ。そのリアーネの手で奥の気配を探ろうとしていた俺の感覚が引き戻されて、ようやくか細い気配を捕らえた。
そうか。在庫の確認に使うつもりで後から掘った小部屋の方だな?
二つに分かれた道の内、左側のより狭くて暗い方に進むと、すぐにランプらしい光がぼんやり見えて人の気配がした。それとなにかを話す声が。
娘と…男?
「だれッ!?」
さすがにまったく音を立てずに近づくことはできない。だから逆に堂々と歩いてそちらに進むと、張り詰めそうに緊張した娘の声が聞こえた。
俺の腕を掴んだままのリアーネの指に力がこもる。
心を閉ざして話すなんて普通はしないものだ。だから今も耐え難い苦痛がリアーネに伝わってるんだろう。
だから外に出て欲しかったがリアーネの意志は固く、俺は仕方なく細い指先を軽く握って力づけるように一度肩を抱いた。
リアーネの指も俺の手を握り返す。……大丈夫そうだな。
「おまえがティゼだな?」
「そ…その声は……」
やっと顔が見えるぐらいに近づいた。
俺を見つけて小さく震えているのは、リアーネと同じくらいの体格の鴉の娘だった。
「ネサラさま…!」
「なんだって? 鴉王!?」
ランプの光は二つ。一つは娘が持っていたもの、もう一つ小部屋の中に置かれたものだ。
慌てて膝をついた娘を身振りで立ち上がらせると、俺は驚愕したらしい男の声がした部屋の中に目を向けた。
いつの間にかリアーネの手は離れてる。そりゃ、今の俺に触れるってのはリアーネにとっては研いだ刃物を撫でるようなものだ。当然のことだろうな。
「あ…まさか鴉王がこんなところに……」
信じられないものを見たように呟いて、男はへたりこむようにその場に膝をついた。
リゾーを捕らえて、先に捕まえていた方の鷹の場所を移したとは聞いた。間に合わせだから明日にはまた目の届く王宮の方に移すと。
……夜目の利かない鳥翼族がこんな暗がりに一晩でもいるのは堪えるだろうよ。もっとも、これはこの男本人がここでいいと言ったかららしいが。
「ネサラさま、どうしてここに……」
「おまえが姿を消したと、ゲルダたちが心配している。戻るぞ」
「あ、あの、わたし…! 約束を、確認しにきたのです」
「約束?」
俺も男なんだ。娘を怯えさせちゃいけない。
努めて穏やかな声で問い返すと、娘は落ち着かない様子で部屋の中に入り、膝をついたままの男の横に並んだ。
それから言ったんだ。驚くようなことを。
「わたしといっしょになるって、だからわたし、応じました。乱暴なんかされていません。このひとは力が強いからこんなことになってしまって、でも誤解だから……」
「力が強いから? まさか合意の上でこんな怪我をさせられたとでも言うつもりか?」
隠しようもなく、俺の怒りが漏れた。
もちろん、娘に対してじゃない。鷹の男に対してだ。項垂れたままの男は無言で、娘の翼が恐れに小さく震えている。外套を着込んでいてよく見えなかったが、さっきから片手がまったく出てこないのは添え木をしているからか。ぎこちない動きでそれがわかった。
「鴉王、違います…! 俺は確かに彼女に乱暴を、」
「合意しました! わたしは、このひとを愛してます!」
二人の叫びが重なる。
揺れる蝋燭の炎に照らし出された二つの影があまりに頼りなくて、俺は背中でいろんな想いに晒されてるだろうリアーネを思いやることもできなかった。
「どうして庇う?」
「庇ってなんか…庇ってなんか、いません!」
「おまえが受けた痛みがどれほど惨いものか……」
無意識に上がった手で、俺は自分の視界を覆った。
忘れられない。忘れられるはずがない。絶対に忘れちゃならない。
俺はいつも見ているだけで、助けられなくて……。
力がない。そのために蹂躙される娘たちの嘆きを、悲鳴を、その血を、知っている。
ルカンだけじゃない。元老院の…今はあの戦争で粛清されたほとんどの者が加担していた。
俺もそうなるはずだった。ならなかったのはあいつに、ルカンに男色の趣味がなかったからだ。
俺自身がされた方が何倍も救われた……!!
「俺は、知ってる」
最後はほとんど息のような声で吐き出すと、小さな嗚咽が聞こえた。娘のものだ。
ぱたぱたと岩がむき出しの床に落ちる娘の涙の音を聞きながら、俺はゆっくりと手を下ろし、項垂れたまま、顔も上げない男に言った。
「妹の話は聞いたか?」
「はい……。昨日、聞きました」
「フェニキスについては、俺は言い訳はしない。憎まれるのも、殺されるのも当然のことだ。俺を八つ裂きにすればいい。そうする権利がおまえたちにはある」
「ネサラさま…!」
鋭く息を呑んだ娘を片手で制すると、俺はなおも顔を上げない男に続けた。
「俺は、卑怯な王だからな。逃げると思ったんだろう。狡い王だと、裏切りは…鴉の性だと、そう思われていることを利用してきたのも事実だ」
苦いのは、その俺の行いがこの結果を引き起こしたことだ。
もちろん、殺してやりたいさ。
俺の大事な民を傷つけたこの男を。
でもそれ以上に自分が赦せない。
「それでも、おまえたちの怒りが向かう先は俺自身だと信じていた。なんだかんだ言っても鷹はお人好しだからな……。俺さえ八つ裂きにできれば、戦士は無理でも女と子どもだけはきっと大丈夫だろうと。――ティゼ」
俺の責任だ。
もちろん、こんな娘に手を掛けたことは赦されないし、赦さない。だが、この男の怒りは否定できない。
まして、半分は作られていても、あんな話を聞かされて冷静でいられるヤツの方が少ないはずだ。
そう思って俺はただぼろぼろと涙を流す娘に向き直り、頭を下げて膝をつこうとした。
「いけねえ! あんたが頭を下げたらこいつはもっと辛くなる!」
だが、その俺を止めたのは鷹の男だった。
「フェニキスのことは確かに別だ! でも、このことは俺が悪いッ! あんたこそ、俺を八つ裂きにしなきゃならねえ!!」
「それは」
「今が大事な時期なのはわかる! だから、落ち着いてからでも…この娘の誇りを守るためにどうか! でなきゃ俺は…俺はもう、」
その後は言葉にならずにむせび泣く男に戸惑って見下ろすと、先に涙を拭った娘が立ち上がり、ひたむきな目で俺を見て頷き、その小さな身体いっぱいで大きな男を抱きしめたのだった。
「どうか…お願いです。わたし……怒ってません」
「ティゼ」
「ネサラさま。鳥翼王さまにもどうかそう伝えてください」
こんな小さな娘が、同胞を守るために堪えるのか。そんな生き方しかできなかった。
キルヴァスでの生活の全てがここに集約されてる気がして、俺はどうにも苦い気持ちでそんな二人を見下ろしていた。
『本当よ』
「リアーネ?」
『その子、怒ってないわ。辛くて、痛くて…でも、怒ってないの』
重い沈黙が降りた部屋に、ふわりと白いリアーネが舞い込む。
淡く金色に光るリアーネの細い腕が、俺の前で小さくなった二人を抱きしめるように添えられる。
「やさしい子…やさしいひと。どうしたらいいか、いっしょうけんめい。でも、もうどうにもならないことだから……とても、とても、つらい。ネサラは、かなしい。自分がいたい方がずっといいって……このひとをゆるせなかった心がなくなりそうで、それが苦しいの」
「リアーネ、読むな!」
「わたし、読む。だってネサラはいつも言わない。言わないから、みんなネサラがわるいって言う。それは、もういや!」
まるで癇癪を起こしたようにそう叫ぶと、リアーネは呆然と自分を見上げる二人に今度はいかにも白鷺らしい麗しさで微笑んで、そのまま謡いはじめた。
まるで子守唄のような呪歌を……優しく甘い、花のような声で。
これは、「喜樂」の呪歌だ。気持ちが沈みこんだ時に聴くと、不思議と元気になるような。いやな夢を見たあとでもぐっすりと眠れるような……リアーネが一番得意な呪歌だった。
そうだ。あの時も確か……。
洞窟の中に木霊するリアーネの呪歌に誘われて、ふと俺の記憶が蘇る。
ロライゼ様がこの呪歌を謡ってくれたんだ。俺が、人形のように泣かなかったから。
父上が眠ったのは…小さな……小さな岩ばかりの島で………。罪人だから、キルヴァスの墓地に入ることも許されなくて……。
さびしくないように、父上の手に俺は………。
「ネサラ?」
あの時に見た夕陽も、こんなランプのような暗い色だった。
遠い記憶に引きずられてぼんやりしていたらしい。謡い終わったリアーネが心配そうに浮かんで俺の顔を覗き込んでいて、俺は緩くかぶりを振った。
どうも、駄目だな。俺が冷静にならなくてどうする?
ふと目を向けると、二人とも鷺の呪歌を聴いたのは初めてなんだろう。魂が抜けたような顔をして座り込み、ただ余韻に浸っていた。
「……大丈夫だ」
まだ心配そうなリアーネをそっと隣に下ろすと、俺はまだ座り込んだままの二人の前に片膝をついて声をかける。
「おい」
「あ…わたし……」
娘がまだ夢の中にいるような顔で俺を見て大きな目を瞬き、男の方ははっと息を呑んで間近にいた俺に仰天したように後ろに跳び退り、大きな身体を縮めるように平伏する。
「この件については、追って沙汰する。今は牢がないからこんな場所に入れられているが、裏を返せば見張りのいない場所に放り込まれる分、信用されているんだ。それを裏切るような真似はするな」
「は、はいッ! 頼りない鍵ですが、決して、決してその鍵を壊してこの蔵の酒に手をつけたりしません!!」
………俺が心配してるのはそこじゃないんだが、この分なら心配いらなさそうだな。
「そうしろ。ティゼ、帰るぞ」
「でも、ネサラさま……」
「おまえの気持ちはよくわかった。皆が心配しているんだ。わかるな?」
「は、はい」
「ならいい」
小さな手を取ると、娘は恐れ多いと言わんばかりの仕草で顔を伏せ、外套の前を合わせた。
そんな娘の後ろで男はなにか言いかけて口を噤み、ただ額を固い床の岩にこすりつけるようにして頭を下げ続けた。
どんな詫びをしようとも、赦されないことはある。それが口先だけでも、真心を込めていても同じだ。
だが……。
「これが鍵か? 鷹じゃなくても無理やり回せば壊れそうだな」
「ここは元々鍵がなかったので、間に合わせだったそうです。でも、あのひとは逃げないだろうからってこうしたと伺いました」
「まあ…そりゃ、そうなんだろうが」
こんなところがラグズとベオクの差だな。喜ぶべき部分ではないのだろうが、俺の感覚はベオクに近いらしい。
小さな金具を引っ掛けるだけの簡単な鍵を掛けると、俺たちは揃って暗い酒蔵から出た。
……さすがに眩しいな。
ランプを吹き消す娘に声を掛けようとしたところで、何箇所も羽根が抜けて傷ついた痕のある無残な黒い翼が目に付いて黙り込む。
知らないふりをした方がいいのか? 娘が嫌がらないか?
わからなくて乱れてもいない服を調えていると、リアーネがこそっと俺の方を覗き込んで小さくこくこく頷いた。
そうか。わかった。俺は気がつかないふりをしていた方がいいんだな?
もう一度頷かれて、俺は娘の手からランプを取り、手を差し出した。
「鴉王さま?」
「添え木をするような怪我をしたんだ。一人で飛ぶのは辛いだろう。掴まれ」
「わ、わたし、そんな……」
「それとも、抱えて飛ぶか?」
「と、とんでもないです!」
火がついたように赤く、それでいて青くなった娘の後ろで、リアーネがまたこくこく頷いていた。
……なるほど。やっぱり鷺がいるのは有難いな。個人的には鷺に見えないのに鷺の力を持つ者がいれば外交の場に連れて行きたいものだが……って、そうか。デインの巫女がそうだった。
あの巫女は自分の力の使い方を占い程度にしか使っていなかったが、もったいない。その気になればあれほど外交に便利な力もないだろうに。
「ネサラさま…も、申し訳ございません。こんな、わざわざ……」
小柄な娘を両腕で抱えて羽ばたくと、娘は消え入るような声で詫びて小さくなった。
本当に抱えて良かったのか? 酷い目に遭わされたんだ。俺の腕が怖いんじゃないのか?
訊くに訊けずにリアーネの翼の速度に合わせながらただまっすぐ寡婦の家を目指して飛んでいると、そっと回り込んだリアーネが頭の上で小さくバツ印を作った。
怖くはないんだな? それなら、まあいいか。
「まあまあ、ティゼ! 鴉王様、それにリアーネ様まで……!」
「ちょっと散歩の距離が長かったようだな」
「心配かけてごめんなさい……」
俺の腕の中でずっと緊張していた娘を下ろすと、ティゼはまた皆に習って膝をついて俺に小さく礼を言った。
「無理はするな。……今回の件についてはおまえの意志もきちんと伝えた上で鳥翼王と話し合う」
「はい」
「鴉王様……」
「辛い思いばかりさせた。すまない」
次々と家から出てきて平伏する女たちに心から頭を下げると、誰からともなくすすり泣きの声が漏れた。
中にはまだ娘のような寡婦もいる。すべてが俺の責任だと言うことはむしろ思い上がりなんだろうが、それでも戦士ではない者たちにこんな思いをさせたことが辛かった。
だが、いつまでも俺がここにいては皆が休まらないな。
そう思って重い頭を上げると、俺は一人一人の手を取って立たせ、小さな家の中に入らせた。
最後に握った熱っぽいティゼの手を握り返してもう一度「おまえの意志は汲む」と伝えると、やっと離れた手で新しく落ちた涙を拭い、ゲルダに付き添われてようやく中へ入って行った。
「ネサラ、いたい?」
「ん? いや……。平気だ」
柔らかな手で胸元にそっと触れられて、俺は笑った。
半分は嘘だ。わかっていてもリアーネはなにも言わない。
もう振り向かずに羽ばたくと、俺は訓練に熱心な鷹の戦士たちの声を聞きながら呟いた。
「しかし、ティバーンのやつ……。先にあの娘に会いに行きやがったんだな」
あの娘が嫌がるなら会わせることはできない。事前にそう言っていたのに。
昨日はどさくさでティバーンに抗議できなかったが、今になって腹が立ってきた。
「ネサラにダメって言われても、ティバーンさまは行く」
「それが赦せないんだ」
「ダメって言われて、なにもしないのがさびしいのに?」
……………ちょっと、待て。
「きゃ」
無邪気な顔で小首をかしげて訊かれて、俺はとっさにリアーネを小脇に抱えるように隠してきょろきょろと辺りを見た。
今のが聞こえる範囲には誰もいないな? ヤナフ辺りはもう、見てないことを祈るしかない。
「リアーネ……。念のため訊くが、なんの話だ?」
「よくわからない。ネサラ、思い出しかけたらすぐに消しちゃうの」
「俺が?」
「そう。でもね、」
「リアー……」
白い花が咲くように笑ったリアーネがふわりと俺の腕を抜け出して、きつく俺の頭を抱きしめた。
柔らかな胸に半分埋まったが息はできる。
きつく抱きしめてるつもりなんだろうが、これが鷺の腕力の限界だな。
「ザンネン。ネサラ、わたしには『もっと』って思わない」
「ちょ、ちょっと待て。だから、なんの話だ!?」
「ネサラ、ティバーンさまにぎゅってされるの、ホントは好き。ね?」
しょんぼりと離れたリアーネにそんなことを言われて、今度こそ俺はまっさかさまにセリノスの森に墜ちかけた……。
「きゃあ、ネサラーッ」
「だ、大丈夫だ」
そこをか弱いリアーネが俺の腕を掴んで必死にぱたぱた羽ばたくものだから、遠目に見守っていたらしい鷹と鴉の兵がこっちに向かって来たが、俺はリアーネとその戦士たちに片手で「なんでもない」と伝えて、なんとかいつもの表情を取り戻す。
本当にしっかりしろ。
まったく、どうして最近の俺はこんなに動揺が表に出ちまうんだ?
「だって、まえとちがうから」
「あぁ、確かに…って、読むな」
「きこえるのはムリ」
……そうだった。俺が悪い。
「ネサラ、ごめんね? ネサラがいやなこと、わたし、したくない。でも、わたしも兄さまも、そばにいたいから、ごめんね」
「謝るな。おまえたちがいてくれたから、俺はがんばれたんだ」
「ホント?」
「ああ」
これは嘘じゃない。
リュシオンは、堕ちるところまで堕ちた「鴉王」の俺のことを、ずっと怒っていてくれた。呆れて見放す方が楽だったろうに、決してそうはしなかった。
リアーネは生きていてくれた。
もう、二度と会えない……。
幼いころのあの日々は、俺の中でかけがえのない宝としてそこにある。
その思い出の中に永遠に消えた中の一人だったリアーネが生きていて、変わらずこうして声が聞けた。
それがあの誓約に縛られたままの日々の中でもどんなに俺を奮い立たせてくれたか、隠さずに俺はリアーネに伝えた。
喜びの分、受けた痛みも少しは混ざったかも知れない。
それでもひたむきに俺の思いを受け取ると、リアーネは少し涙ぐんでまた笑い、「ネサラ…!」と感極まったように俺を抱きしめてすりすりと頭をすりつけてきた。
俺の頭の上に、暖かな涙を落としながら。
「おい、泣くなよ」
「うれしいの…!」
「そうか?」
「うん。うれしい。ネサラ、わたし、ネサラが大切。だから、わたし、こんどティバーンさまに言ってあげる」
「な、なにをだ?」
子どものようにぐいぐい涙と鼻水を拭って笑うリアーネの表情に嫌な予感がして尋ねると、思った通り、リアーネは最高の思い付きをしたとでも言わんばかりの口調で言いやがった。
「ネサラをぎゅってするときは、ネサラがいやって言ってもやめちゃダメって!」
「そこはやめていいんだ、そこは!」
「きゃッ」
とっさに顔に上る血の気を消せずに怒鳴ると、リアーネが翼ごと小さくなって落ちかける。
慌ててそのリアーネを受け止めながら、自分の発言の意味をまったくわかっていない様子で、急に声を荒げた俺にただ首をかしげて困った顔になったリアーネに俺は言った。
「ネサラ、いや?」
「いやだ。だから、言うな」
「わかる。ホントに、言われるのいや……。でも、言わなかったらティバーンさま、わからない。それでも?」
「その方がいいし、俺は本気でティバーンにどうこうされたいわけじゃない。その、一瞬の気の迷いはあったが、それだけだ」
「まよい? ネサラ、まいごなのね」
「そうだな。迷子だな」
自分の感情が自分でわからないんだから。
あんまり素直なリアーネの物言いに少し笑って、俺はまた元気にぱたぱたと軽い羽音を立て始めたリアーネを腕から離して言った。
「ニアルチはどうしてる?」
「ネサラのこと、心配してる」
「そうか。今夜は俺も行くつもりだから、それを伝えるついでに見舞ってやってくれるか? 老いぼれの身であんなでかい鷹に吹っ飛ばされたんだ。たくさん謡ってやって欲しい」
「ん! わたし、がんばる」
「ああ。頼む」
これも本心からの言葉だ。
柔らかなリアーネの金髪頭を撫でると、リアーネは華奢な両腕で力こぶを作る仕草をしてぱたぱたと飛んでいった。
振り返り振り返り、ニアルチのいる鷺の館の一室を目指しながら。
「まったく……」
リアーネはとんでもないことを言うな。
俺がなんだって? ティバーンに抱かれるのが好きだと?
こんなこと、ウルキ辺りが聞いたら絶対に誤解されるだろ。
リアーネが見えなくなってから深い息をついて、俺はのろのろと高度を落とした。余り人目につかないよう、枝が茂った位置に来たかったんだ。
「あれは本当に気の迷いだ」
それから言い訳のようにぽつりと呟く。
あまりに淋しい場所から出てきたから、ティバーンの体温が堪らなく心地よかった。
たくさんの死を見てきたが、それでもあんなに淋しい場所は知らないような気がした。
今思えば変な話だ。俺はキルヴァスにある墓標の群れだって知ってるのに。
恐らく、セフェランの常識外れの魔力に晒されて俺の魔力も少し高まっていたんだろう。娘たちのむき出しの感情に晒されたのも原因だ。
もしかしたら、リュシオンやリアーネたちはいつもあんな思いをしてるのかも知れない。
そう思うと、鷺は身体こそ華奢だが心は強いと本当に思う。
それに、物足りなく感じたのはたぶん、大口を叩くくせに結局はティバーンが引くからだ。
もちろん、引くなって意味じゃないぞ。
ただ、押してくるばかりかと思ったら急に突き放すように引くから、混乱するっていうか……。くそ、上手くまとまらないな。
結局、自分の子を産むような女がいるんだから、遊びはしょせん遊びってことなんだろうさ。
はン、こっちだってあんなごつい男に本気で迫られたら迷惑なだけだ。だから、余計なちょっかいは掛けて欲しくない。
…………それだけの話だ。
いつの間にか張り出した枝に座り込んでいた俺の脳裏に、娘に会う前に執務室を訪れた鷹の女戦士が浮かんだ。
いかにも鷹らしい女だった。陽気そうで、腕っ節も酒も強そうで、弱々しい部分は欠片もない。
きっとティバーンの我侭なところだってああやって朗らかに笑い飛ばして受け止めるんだろう。
あんな女がティバーンには相応しい。
……俺が考えるまでもないか。ティバーンの子を産むような仲なんだからな。
ラグズなんだからベオクほど王の血統に重きはないが、それでも王位にある間の子は特別だ。
生まれたことを俺がキルヴァス王だった頃に知らせてくれれば、文句を言いながらでも祝い品と祝辞の一つでも贈ったものを。
無意識に掴んでいた冷たくなった葉を引いて千切った自分が子どものようで、ちょっとおかしい。こんなところをリュシオンに見つかったらどやされるな。
手の中に握ったままの深い緑の葉にそっと詫びて落とすと、俺はなんだか胸に引っかかる妙な重苦しさに首をかしげながら枝から降りて羽ばたいた。
鴉の民がセリノスに移ってから三ヶ月か……。
うれしいもんだ。最初はあんなにひたすら小さくなっていた鴉が、今は鷹と並んで笑顔で会釈できるようになった者もいる。
少しずつでもこんな輪が広がって欲しい。
俺の顔を見てぎこちなく挨拶した鷹の男が、昨日執務室で俺に詰め寄った鷹の一人だと気づいて、俺は面映い気持ちで応えて自分の執務室を目指した。
「よう、鴉王!」
「あぁ、ヤナフか。……おい、なんだ?」
王宮が見えて高度を落としかけたところで声を掛けてきたのはヤナフだった。俺が挨拶する前になんだかやたらとにやにやしたヤナフが眺めるように俺の周りを飛び、ぽんぽんと小さな手を俺の頭に乗せやがる。
こいつはこんなナリだが歳はティバーンより上だ。それはわかっているが、だからってこんなことをされてもうれしくはないぞ。
「よせ。一体なんのつもりだ?」
「ん〜? いやいや、べつに! おまえも気苦労が絶えねえな。元気出せよ」
「……最初から元気だぞ」
「馬ッ鹿、化身できなくなってたろ? 治って良かったなって言ってんだろが! それより、王が探してたぜ。王宮に戻るなら王の執務室に行きな」
「そう言えば、俺のところに回って来たほかにも書類があったな。わかった」
やれやれ。結局そこは俺が面倒を見なきゃならないのか。
まあ、役に立てることがあるだけましだって思っておくところなのかね。これも。
そう思って肩を竦めると、俺は鳥翼王の執務室のテラスに下りた。落ちかかる前髪をかき上げながら、さて、出発前に片付けられるものは先に片付けようと思ったんだが。
「よう、ネサラ」
「………」
珍しく執務机につき、陽気に片手を上げて笑うティバーンの傍らに佇んだウルキを見つけて、俺はとっさに固まった。
なんでここにこいつがいるんだ…!?
それより、聞いたのか? リアーネとの話を……。
「ネサラ、どうしたよ?」
動かない俺に怪訝な表情をしたティバーンには見えない位置で、ウルキが居心地悪そうに俺から視線を外す。
それだけでわかった。さっきからのやりとりをなにもかも聞かれたってことを。
じゃあ、ヤナフのさっきの、妙な態度も………!
「おい、ネサラ?」
青くなっていいのか、赤くなればいいのかわからなくてとっさに口元を押さえて出て行こうとした俺を見たティバーンが立ち上がる。
「待てよ。どうした? また具合が悪いのか?」
ティバーンの方こそ、具合が悪そうだった。今は顔色も良くなったようだが、それ以上観察する余裕がない。
もしリアーネの言葉がそのまま伝わっていたなら最悪だ。
どう言い繕ったって下手な弁解にしか聞こえない。
「……鴉王」
だが、何も言わずにティバーンを振り払って出て行こうとした俺を、ウルキが呼んだ。心配そうに俺の額に手を当てたティバーンの腕を抜けて視線を向けると、ティバーンにはわからない位置でそっとウルキが首を振る。
「ヤナフだけか…?」
「あ? なにがだよ?」
思わず転がり落ちた俺の問いに怪訝な表情をしたティバーンが振り返る前にウルキが小さく頷き、それとなく視線を外して執務机の引き出しを開けてごそごそと書類を取り出す。
どうやら、ティバーンは本当に知らないみたいだな。
あぁでも、ウルキはともかくヤナフの口は軽そうだ。しかも、面白がってるに決まってる。
あの娘の話をどうつけようか悩んでいたはずなのに、なんでこんな面倒なことに……畜生!
「なんでもない。今日はウルキもいたんだな。朝から出るって聞いたから、てっきりそのつもりでいた」
「ああ、どうせならこっちの仕事を任せてえしよ、俺たちも今日出発するんだ。今さらウルキを向こうにやるまでもねえと思ったんでな」
「そうか。……まったく、いい加減あんたも一人で政務を取り仕切れるようになれよ。あんたが王なんだから」
「わかってるって。それより、あんまり驚かせるなよ。心配したじゃねえか」
これも本気なんだよな。
すっかり俺専用になっちまったティバーンの机のちょうど横側に置かれた椅子に腰を下ろしながら、俺はなんとも情けない気分で乱れた前髪をかき上げた。
とにかく、するべきことを先にしてしまおう。そうすれば気持ちも落ち着く。
「お茶を淹れよう」
「おう、俺には酒をたらしとけよ」
「なんだ、調子は良くなったのか?」
広い机の上に置かれた書類に目を走らせて言うと、ティバーンは一瞬黙って、無造作に自分の椅子に腰を下ろした。
それから視線を合わせたいのか避けたいのか、なんとも言えない仕草で少し髭の伸びた顎を撫でて答える。
「ん、まぁな。俺の方はちょっと落ち着かしゃすぐだ」
「でも、発情期が近いんだろ? あんたはここにいた方がいいんじゃないか?」
「なんだよ、俺にこまされたくねえからか?」
にやりと久しぶりに男らしい笑顔で言ったティバーンの向こうで、がちゃりとウルキがなにかを落とした音がした。
「……失礼を」
「おい、おまえまでどうした? 耳は大丈夫か?」
ウルキは耳がいい。いや、良すぎる。
だから身構えている時はともかく、特に近くの突発的な音は辛いと俺も聞いたことがあるから俺もティバーンと同じ気持ちで様子を見たが、どうやらどうもなさそうでなによりだ。
もしかしてあれは動揺したのか?
……沈着冷静に見えても、ウルキも鷹の民ってことらしいな。
そう思うと面白いものだな。少しだが落ち着いた気がする。
「よくわからないが、とりあえずしばらく発情期の心配はないのか?」
「おう、ないぜ。まあ、ちゃんと散らせたわけじゃねえから効果のほどがいつまでかは保障しかねるが、少なくとも今日明日おまえに襲い掛かるってことはねえな」
「そうか。……セリノスだものな」
「ん?」
馴染みの女がいる。そういうことか。
納得して頷くと、そっと俺の様子を伺うウルキの視線を感じた。
どんな内容の心配をされているのか、考えたくないな。
努めて普通の顔をして、俺は急ぎの書類がないことを確認してから言った。こんなことは回りくどくしないで済ませた方が良い。そう思ったからだ。
「鴉の娘のことだが」
一瞬でティバーンのにやけ面が引き締まり、懐かしい「鷹王」の顔になって俺に向き直る。
「率直に訊く。あんたの考えはどうだ?」
「…………」
「言っておくが、俺たち鴉の判断に従うって答えはなしだ。理由はわかるだろう?」
ウルキは鷹の中では丁寧な性格だ。充分に蒸らされた茶葉の匂いが漂ってくるまでティバーンは沈黙して一度目を閉じ、まっすぐに俺を見た。
こんな時には金色に見えるあの金褐色の目で。
「娘の気持ちは聞いた。だが、鷹の王としての俺の考えでは、死罪だ」
静かな部屋に、お茶が注がれる音が響く。なにも言わずにティバーンの視線を受け止めた俺に、ティバーンが先に言った。
「ネサラ。おまえが生かされてるのに、どうしてあの男がなんて、今さらつまらねえことを言いやがったら殴るぜ」
「それなら、殴ればいいだろ」
一瞬、ティバーンの大きな身体から怒気が吹き出す。だが本当にその大きな拳が振り上げられる前に腕を組むと、俺も高い天井を見て黙り込んだ。
……わかっていたさ。ティバーンの答えなんて。
そして、恐らくは心ある…違うな。鷹らしい鷹である者たちの答えも、同じなんだろう。
だが………。
「娘は、あの男のことを愛していると言った」
「なんだと?」
「いっしょになる約束をしたと。……鷹の男は力が強い。だから、こんなことになってしまったのだとな」
「まさか、信じちゃいねえだろうな!?」
天井を見上げたままで娘が言ったままの内容を伝えると、ティバーンが立ち上がって俺の両肩を掴んだ。
痛いだろ。この馬鹿力め。
……あの娘はもっと痛かっただろう。
「なあ、ネサラ。経験のねえおまえにはわからんかも知れねえ。だがな、あれは合意の上でなんてことは絶対にない。たとえ合意でも、あんな乱暴な真似をするような男はクソだ!」
本気で怒ったティバーンがのろのろと顔を戻した俺に言い募る後ろで、ウルキも厳しい表情で俺を見ていた。
あぁ、わかってるよ。経験のあるなしじゃない。それぐらい、俺だってわかってる。
「ティバーン……」
「ネサラ、俺もおまえに訊く。おまえの考えはどうだ? 王として民を守る義務がどうのこうのはこの際ナシだ。正直な気持ちを言ってみろ」
掴まれたままの肩が痛い。
食い入るような視線で覗き込まれて、俺は唇を噛み締めて怒りに燃える金褐色の双眸を見つめ返した。
俺の気持ち? 決まってる。赦すなんてことは絶対にできない。
それでも、体中であの男を庇った娘の姿と、娘の言葉と…リアーネがたどたどしく教えてくれた二人の気持ちが、俺の中に残っていた。
「そりゃ、もちろん、赦せないさ」
「そうだろうが! だったら…!」
「でも、死罪は駄目だ」
「王!」
物理的な圧迫感さえ感じるほどの怒りがぶつかると同時に鋭く振り上げられた逞しい腕が、ウルキの怒声で止まった。
ウルキでも大きな声を出すんだな。珍しいものを聞いた。
「てめえは…鴉の王だろうが!」
「そうだ」
「そのてめえが怒らないで、誰が娘のために怒る!? あのキルヴァス王がそんな腑抜けとは呆れるぜ!!」
「俺はもう王じゃない」
これも本当の話だ。
ぽつりと言うと、殴られる代わりに胸倉を掴んで引きずり上げられた。
今日はいつもの黒衣じゃない。首に妙な痣を残されたからニアルチにちゃんと首元まで閉まるシャツに着替えさせられたんだが、それが災いしたな。
「王、乱暴はいけない」
「この程度が乱暴のうちに入るかッ! あの娘が受けたのはこんな程度の暴力じゃねえんだぞ!!」
首が絞まって苦しい。
堪えきれずに俺の口から「けほ」と小さな咳が漏れると、ウルキがもっと慌てた様子になって太い血管や筋肉の筋が浮き上がったティバーンの腕を掴み、きつく諭した。
「王、…ティバーン、無抵抗のものに暴力を振るうのは、もっとも恥ずかしいことだ」
ぎり、と俺のシャツとティバーンの腕が音を立てる。
本当に鷹ってのは無駄に熱いな。自分の民がされたわけでもないのに…って、そうか。そうだな。今は自分の民か……。
裁く方も、守る方も。
「あの男を裁かないで欲しいと…鴉王も娘に頼まれた。鴉王はそれを伝えただけだ」
「そんなの、娘がこいつのことを、仲間の鴉の立場を思って言ってるだけだろうが!」
「ティバーン…鴉王にも立場がある。責任もある。だからこそ…感情のまま片付けられないことを知っている」
ウルキの静かな声に一瞬ティバーンの全身が化身の時のように緑の光を帯びて、ぎりりと噛み締めた歯が鳴った。
「ああ、そうだな。こいつは俺と違っていつだって冷静だ。だがな、こんな時のこいつの冷静さには反吐が出そうだぜ…!」
吐き捨てるように唸ったティバーンが乱暴に俺を離して、俺は落ちるようにまた椅子に座り込んだ。
奇遇だな。俺も同感だ。
本気で憤るティバーンにそんなことを言えば、今度こそ殴られる。あの馬鹿力で殴られたらただじゃすまないな。
さすがにニアルチやリアーネたちのいるセリノスでそんな顔を晒してうろつくことはできないから、ただそれだけの理由で俺は黙っていた。
本当に、憎まれ口を叩くのは得意だったんだよな。すっかりティバーンを王として立てることに慣れてきていたから、今まで忘れちまってたんだが。
「王、どこへ」
「うるせえ! 頭を冷やしに行くだけだ!」
やれやれ、なにも片付いてないのにか?
苦笑する俺にも気づかずに乱暴に扉まで飛ぶと、ティバーンはそのままなにも言わずに大股で執務室から出て行った。
頭を冷やすって……あいつ、どこへ行くつもりだ?
「ウルキ」
いつもの無表情ながら、困った様子で俺とティバーンを見比べるウルキが可笑しい。
ティバーンの腰巾着なんだから、素直にティバーンについて行ったらいいんだよ。
「さっさと行ってやれ。こんなことで俺は泣いたりしない」
「………すぐ戻る」
「構わなくていい」
どうしてわざわざそんな言葉を選んだのか。
自分でも不思議だったが、効果はあったんだな。
神妙な様子で俺に答えると、ウルキは慌てた様子でティバーンの後を追った。
そうだとも。誰よりも情に厚いティバーンの方にこそ、こんな時はそばについていてやらなくちゃ駄目だ。
それに、俺の方もあいつがいない方が仕事がはかどる。
人がせっせと書類を起こしてる時でも、どうでもいい話をあれこれ振ってきては邪魔しやがるからな。
まあ、ここはあいつの執務室なんだから仕方ないのかも知れないが。
いつの間にかここに用意された俺の筆記用具もそのままだ。
俺の好みのやや柔らかめのペン先をインクに浸して羊皮紙を広げたが、今日は珍しく考えがまとまらなかった。
出発までそんなに間がないのに……いや、いざとなったらあいつを置いて行くか? その方が楽と言えば楽だが。
乾きそうになっているペン先をぼんやり眺めながら座っていると、いつの間にか静かな森の気配がしてラフィエルが入って来ていた。
「ネサラ……」
「ラフィエル一人なのか? ニケは」
驚いて後ろを見るが、ニケはいない。ラフィエル一人だ。
扉をそっと閉めてそばに来たラフィエルの優しい顔を見ていたら、なんだか胸が詰まったような錯覚を覚える。
「私一人です。女王は森の外れにいますよ」
「森の外れ? どうしてそんなところに?」
「ガリアの使者を迎えに行ったのです」
不思議に思って首をかしげた俺に微笑んだラフィエルがそっと俺を抱きしめた。
昔と変わらない、清々しい朝露を含んだ森の匂いがする。
「ガリアの…あぁ、そうか。狼の民の受け入れについていろいろと話すこともあるだろうしな」
「はい。……不器用なひとですね」
「ティバーンか?」
「二人ともですよ」
二人? 俺もってことか?
驚いて訊こうとしたが、そうだった。こいつにはいちいち声に出して尋ねる必要はないんだ。
それでも自分の中のなにかを奮い立たせるような気持ちになって、俺はわざと声に出して訊いた。本当は、もうそれほど気に掛けていられる気分じゃなかった疑問を。
「レニング卿から手紙が届いたと聞いた。親しいのか?」
「どの程度を指してかはわかりませんが、私にとってはベオクの友人の一人です」
「そうか。……ラフィエルにベオクの連中で『友人』だと言えるヤツがいるのは、俺もうれしいな」
「はい」
小さく笑った俺を抱きしめるラフィエルの腕にそっと力がこもる。
なんだ? 慰めようとしてるのか?
「大丈夫。彼はそんなに弱くない。ネサラ……あなたも」
当たり前だ。俺も、ティバーンも弱くはないさ。王なんだから。
「すぐに落ち着きますよ」
そう言って何度も俺の頭を、背中を撫でるラフィエルの手が心地よくて、俺は目を閉じて素直に翼をしまった。
泣きたかったわけじゃない。
ただ、昔のように抱きしめてくれたラフィエルの腕に、リアーネに刺激されて思い出した幼いころの記憶や気持ちが重なっただけだった。
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